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「晴明会館 精華の名品展―美術の見方、美術の楽しみ方」
第1回「画家の栄光と挫折」 青木繁(あおきしげる)と坂本繁二郎(さかもとはんじろう)


明治という時代の新しい風潮の中で、日本の洋画界は若々しい青春を迎えていた。福岡県、久留米(くるめ)から画家を志して東京へ来た2人の若者。生まれも同じ町、学校も机を並べる青木繁と坂本繁二郎である。共に貧しい廃藩(はいはん)の武士の家庭で育ち、手を取り合って新しい洋画の道を歩む。しかし後の世に近代日本の「天才画家」と讃(たた)えられた二人だが、その生涯は全く対照的だった。いち早く画壇(がだん)に名を挙(あ)げた理想家肌の青木は、貧困と世間の無理解の中で僅(わず)か29歳の悲劇の人生を閉じ、一方、世の名利(みょうり)を捨て生涯故郷(ふるさと)を離れず自然と風物に日本の心を描き続けた坂本は、青木の三倍もの87歳の人生を全うし、文化勲章を授与された。芸術家の背負わされた宿命と言おうか。
東京に出て東京美術学校に学んだ青木は、フランス帰りの新進洋画家黒田清輝(くろだせいき)門の「白馬会(はくばかい)」に入った。作品の「舞妓(まいこ)」はその頃の素描画(そびょうが)。卒業した翌年、あの有名な「海(うみ)の幸(さち)」の作品で一躍画壇に名を挙げ“新生(しんせい)の天才児(てんさいじ)”と騒がれたが、その後出品作の評価や家庭のいざこざから酒と放浪(ほうろう)の破滅の道を歩み、病(やまい)に冒(おか)され明治44年(1911)死去。「死んだらケシケシ山の松の木の下に埋(う)めて欲しい」と遺言(ゆいごん)した故郷の高良大社(こうらたいしゃ)。これは彼が中学2年に描いたスケッチである。
坂本は小山正太郎(こやましょうたろう)の「不同舎(ふどうしゃ)」で開花の早い親友、青木を横に見ながら熱心に洋画を学んでいた。文展(ぶんてん)[大正元年(1912)]に出品した作品「うすれ日」の絵を見た夏目漱石(なつめそうせき)は「これは考える牛」と、作者と作品の深い精神性を評論したのは有名な話。その後3年間フランスに渡り、帰国しても中央の東京に行くを断り、生涯故郷の筑後(ちくご)を離れず美しい自然と馬を描き続けた。晩年はさらに幽玄(ゆうげん)な伝統文化の能面(のうめん)に深い日本人の心を描いた。昭和44年(1969)没。

解説 晴明会館顧問・美術評論家 亀田正雄

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