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解説履歴

明会館 精華の名品展―美術の見方、美術の楽しみ方」
第2回「どちらが浮世絵(うきよえ)の開祖(かいそ)?」
岩佐又兵衛(いわさまたべえ)「車争之図(ぐるまあらそいのず)」と菱川師宣(ひしかわもろのぶ)「曽我物語(そがものがたり)」


屏風絵(びょうぶえ)の人物の顔の描き方をちょっと注目しよう。祭見物に来た平安貴族の牛車(ぎっしゃ)が、駐車場所を巡(めぐ)って乱闘する「車争い」の図。白衣(びゃくえ)の力車(りきしゃ)も馬上の公達(きんだち)も輿(こし)の貴人もいずれもホホが膨(ふく)らみ、アゴが長い。これは岩佐又兵衛の作品を見分ける一つのヒントとされている。又兵衛は江戸時代初期に活躍した画家で、数奇(すうき)な出生と奇想な作品から“ナゾの画家”と言われた。上品で優雅な王朝風の作品の一方で、目も覆(おお)いたくなる血塗られた残酷な絵巻。又庶民の風俗を描いた「浮世又兵衛(うきよまたべえ)」の名もある、どれが本当の又兵衛か、不思議な画家だ。
父は摂津(せっつ)の伊丹城主(いたみじょうしゅ)、荒木村重(あらきむらしげ)。織田信長(おだのぶなが)に背(そむ)いて一家皆殺しの中、2歳の時、乳母(うば)に抱かれて逃げ延び京都、福井、江戸で絵を描き、慶安(けいあん)3年(1650)、73歳で没。この数奇な生い立ちも“ナゾの画家”又兵衛の絵を異様な存在にしているという。
展示中の作品は、毛利家(もうりけ)から転々流浪し当館の貴重なコレクションとなったが、はっきりしたことは分からない。
その頃江戸で絵師の描いた一枚の原画を彫師(ほりし)が版(はん)に彫(ほ)り、摺師(すりし)が摺(す)って多量生産される木版画(もくはんが)が、庶民の間に広まっていた。人々はこれを浮世絵と言い、これを大成させたのが菱川師宣である。元和(げんな)4年(1618)千葉で生まれ、京都で絵の勉強をし、当時流行していたお伽草子(とぎぞうし)の物語本(ものがたりほん)に目をつけ、文字の部分より絵を大きくし、やがて独立した浮世絵にした。武士階級の絵に対し、もっぱら町人の市民生活を絵にし、浮世絵の開祖といわれる(又兵衛の開祖説もあるが)。師宣の絵は近年「見返(みかえ)り美人(びじん)」の切手にも登場したが、ここに展示中の木版画「曽我物語(そがものがたり)」は、江戸初期の庶民が愛読した仇討物語(あだうちものがたり)を一枚絵にしたもの。まだ黒一色だが、浮世絵はこの後、華やかな色彩版画(しきさいはんが)(錦絵(にしきえ))へと発展して行く。

解説 晴明会館顧問・美術評論家 亀田正雄

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