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第3回「“九州三右衛門(きゅうしゅうさんえもん)”とは」


愛陶家(あいとうか)の間で「九州三右衛門」と親しまれる御三家(ごさんけ)―赤絵(あかえ)の酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)、色鍋島(いろなべしま)の今泉今右衛門(いまいずみいまえもん)、叩(たた)き唐津(からつ)の中里太郎右衛門(なかざとたろうえもん)。いずれも肥前(ひぜん)(佐賀県)にあって、江戸時代初期から400年近く伝統の秘技を現代まで守り続ける名家である。昭和35年この三家の当主による「九州三右衛門展」が朝日新聞の主催で開かれ大変な好評で、この名が一躍有名になった。ところで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った文禄(ぶんろく)、慶長(けいちょう)の役(えき)(1592〜98)は武将たちが朝鮮人陶工(ちょうせんじんとうこう)を連れて帰国し諸藩で窯(かま)を築き陶器(とうき)を焼かせた話は知られるが、中でも鍋島藩(なべしまはん)の李参平(りさんぺい)が元和(げんな)2年(1616)肥前の有田(ありた)で初めて磁器(じき)を作ったのは我が国の陶芸史上一大発見であった。これをきっかけに九州肥前はやきものの先進地として日本は疎(おろ)か海外にも名声を轟(とどろ)かせた。「夕日を受けた美しい柿のあの赤色を…」伝説で知られる酒井田柿右衛門が有田で色彩(しきさい)陶器の「赤絵」を発見したのはそれから30年もたたず。乳白色(にゅうはくしょく)の陶肌(とうはだ)に描かれた鮮やかな色模様は現代も「柿右衛門の濁手(にごしで)」として受け継がれている。
その頃“磁器の最高品”とまで言われる鍋島焼(なべしまやき)(色鍋島)が鍋島藩直営の藩窯(はんよう)として有田に生まれた。藩主から朝廷、将軍、諸大名への贈り物として特に優れた品を作るため藩で厳しく秘法が外に漏(も)れることを防ぎ、職人、材料費の金に糸目をつけず制作された。皿の下絵の染付(そめつけ)に一分(いちぶ)の隙(すき)もなく描かれた線模様の精緻(せいち)さは色鍋島の極致(きょくち)とされた。明治の廃藩(はいはん)で途絶えたが、その技法は代々の御用絵師(ごようえし)今泉今右衛門により継がれている。
肥前の窯が続々磁器に転じる中で、土の陶器を作り続けていたのが唐津焼。やきものを東の“瀬戸(せと)もの”に対し、西では“唐津(からつ)もの”と呼ばれたほどで、特にざっくりとした素朴な李朝風(りちょうふう)の茶碗は「一楽(いちらく)、二萩(にはぎ)、三唐津(さんからつ)」と茶人(ちゃじん)にもてはやされていた。唐津焼は釉薬(ゆうやく)や技法(ぎほう)で多種だが、唐津藩の御用窯(ごようがま)としての伝統を受け継ぎ、古唐津の“技法”を復活させた中里太郎右衛門(無庵(むあん))の“叩き唐津”が知られている。

解説 晴明会館顧問・美術評論家 亀田正雄

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