明治19年 東京生まれ。本名 藤田嗣治(ふじたつぐはる)
東京美術学校(現・東京芸大)西洋画科を卒業後、大正2年渡仏。天賦の才能と個性豊かな生き方で、20世紀の西洋近代美術史に栄光の一時期を刻んだエコール・ド・パリのトップスターとして、ピカソらとともに全世界にその名声を謳われました。
「私は西洋のどの画家もやらぬ絵を描きたい」と渡仏以来研究を重ね、フランスの画家や評論家を驚かせた「裸婦」の絵を発表しました。彼は母国の歌麿や春信等、浮世絵師が表現してきた女性の肌の美しさに注目し、独自の乳白色を創造しました。その乳白色の滑らかな肌の質感は、面相筆による墨汁の黒く細い輪郭線で一段と美しい調和を見せました。裸婦を美の対象としてきたヨーロッパ人にとって初めて見た美しい裸婦の肌で、フジタの名声は確定的となりました。