明治12年、博多区下川端(はかたくしもかわばた)にあった「博多素麺(はかたそうめん)」の老舗(しにせ)に生まれる。18歳で家を飛び出し、京都に上り都路華香(つじかこう)に師事(しじ)、四条派(しじょうは)を始め仙崖(せんがい)や鉄斎(てっさい)に傾倒し、仏画(ぶつが)や南画(なんが)を学びました。日本各地のみならず台湾、中国での放浪生活で自らの精神と肉体を鍛え、東洋や西洋の文化に触れる事で、渓仙の画風は異才を放つと共に、精神性と文人的な特性も深まり、昭和初期には京都画壇で鉄斎、栖鳳(せいほう)等と並び称される大家となりました。また東京の横山大観(よこやまたいかん)との親交も深く、京都に居ながら東の院展(いんてん)に出品を続けました。
この展示作品は、仏の功徳(くどく)を讃(たた)えるという天女のしなやかなポーズや衣の流れ、手や顔に込められた作者の心遣いが生き生きと表現された、線書きの素描画(そびょうが)(デッサン)です。